Masuk十二月の水曜日、久遠くんは資料室にいました。
文化祭はとっくに終わっているのに、この人はまだ通っています。
展示に使わなかった資料が、まだ机の上に残っていました。
「何か分かりましたか」
「行き止まりだ」
久遠くんは、古い地図を畳みながら言いました。
「江戸より前の記録が残っていない。天保のころに一度、社務所が焼けている。それ以前のことは、
焼けていてよかった、と思ってしまいました。
そう思った自分が、少し嫌でした。
「そうですか」
ほっとしたことが、顔に出ていたかもしれません。
「残念そうじゃないな」
「……そんなことないです」
「そうか」
久遠くんは、それ以上言いませんでした。
窓の外は、もう暗くなっていました。
資料室にはストーブがなくて、息が少し白くなります。
久遠くんは上着
十二月の水曜日、久遠くんは資料室にいました。文化祭はとっくに終わっているのに、この人はまだ通っています。展示に使わなかった資料が、まだ机の上に残っていました。「何か分かりましたか」「行き止まりだ」久遠くんは、古い地図を畳みながら言いました。「江戸より前の記録が残っていない。天保のころに一度、社務所が焼けている。それ以前のことは、口伝でしか残らなかった」焼けていてよかった、と思ってしまいました。そう思った自分が、少し嫌でした。「そうですか」ほっとしたことが、顔に出ていたかもしれません。「残念そうじゃないな」「……そんなことないです」「そうか」久遠くんは、それ以上言いませんでした。窓の外は、もう暗くなっていました。資料室にはストーブがなくて、息が少し白くなります。久遠くんは上着も着ずに、袖をまくったままでした。この部屋に、この人はもう何時間いるのでしょう。展示はとっくに終わっているのに、調べることをやめないのです。「久遠くん、寒くないんですか」「寒い」「着てください」「そうする」言われないと着ないのに、言えば素直に着る人です。椅子の背にかけてあった上着を取って、久遠くんは座り直しました。そして、こう言いました。「新太は、この一か月で三回謝ってる」「え」「君にだ。自分が不機嫌だったことを、後から謝ってる。あいつはそういうことを俺たちには言わない。でも顔で分かる」私は、黙っていました。「幸也は、月曜の帰りに何かあったな」心臓が、跳ねました。「火曜から、あいつの喋る量が三割減ってる。笑い方も変わった」「……どうして、そんなことまで」「見えるからだ」
十二月の月曜日は、幸也くんの日です。その日は朝から雨で、放課後になっても止みませんでした。傘を持っていなかった私に、幸也くんは自分の傘を押しつけて、自分はフードをかぶって歩き出しました。「入ってください」「いいって。俺、雨好きだから」「嘘です」「ばれた?」結局、二人で一本に入りました。肩が濡れるのは、幸也くんのほうでした。何度こちらに寄せても、その分だけ幸也くんが離れます。途中で諦めました。歩きながら、幸也くんはずっと喋っていました。昨日見たテレビの話。クラスの誰かが先生に怒られた話。コンビニの新作の肉まんが思ったより小さかった話。全部、どうでもいい話です。幸也くんは、私が黙っていると必ず喋ります。三秒以上の沈黙を、この人は作りません。最初は、そういう性格なのだと思っていました。夏の川で笑っていたときも、ずっと喋っていたからです。でも、十二月になって気づきました。この人は、喋っているのではありません。沈黙を埋めているのです。商店街のアーケードに入って、傘を畳んだとき、私は聞いてみました。「幸也くん」「ん?」「疲れませんか」幸也くんの手が、一瞬止まりました。「何が?」「ずっと、喋っているのが」「疲れないよ」幸也くんは、すぐにそう言いました。速すぎる返事でした。「じゃあ、十分だけ黙ってみませんか」「は?」「今から十分、二人とも黙って歩きます」「なんの罰ゲーム?」「罰ゲームじゃないです」幸也くんは、明らかに困った顔をしました。困った顔をしたことを隠すために、笑いました。その一瞬の表情を、私は見逃しませんでした。久遠くんの見
十一月に入って、日が急に短くなりました。五時を過ぎると、もう川沿いの道が暗くなります。街灯の間隔が広いので、明るいところと暗いところが交互に来ます。火曜日は、新太くんの日でした。冬服になってから、四人の見分け方が少し変わりました。上着の着方に、それぞれの癖が出るからです。新太くんは、寒くても前を開けています。◇その日、教室を出るのが少し遅くなりました。幸也くんが、数学のノートを見せてくれと言ってきたからです。ついでに雑談になって、幸也くんがくだらないことを言って、私は笑いました。廊下に出たとき、新太くんが壁にもたれて待っていました。「ごめんなさい。遅くなりました」「別にいい」声が、少し硬いと思いました。鞄を取り上げる手つきも、いつもより雑でした。歩き出しても、新太くんは何も喋りませんでした。この人が黙るときは、たいてい機嫌が悪いときです。黙るのが下手な人だから、黙っていること自体が答えになってしまいます。橋の手前で、新太くんが立ち止まりました。「悪い」「え?」「今、俺、感じ悪かった」欄干に手をついて、新太くんは川を見ていました。「幸也と喋って、お前が笑ってるの見て、腹が立った。それだけだ」「……そんなことで、謝らなくていいです」「そんなことじゃない」新太くんの声が、少し大きくなりました。「腹が立ったんだよ。幸也に。あいつは何も悪くない。ただ喋ってただけだ。それで腹が立つ俺がおかしい」川の音がしていました。十一月の水は、見るからに冷たそうでした。夏に幸也くんと入った川と、同じ川です。あのときは足首まで浸かって、冷たいと笑っていました。「俺さ」新太くんは、そこで一度、息を吐きました。「た
週が明けて、私は四人を呼び出しました。生まれて初めて、自分から四人を呼んだのだと思います。場所は、学校の裏の坂道にしました。三年前の秋、和樹くんが私に告白した場所です。四人のうち、それを知っているのは私だけでした。和樹くん本人も、知りません。あの日のことは、この人の中から消えています。それでも、ここにしたかったのです。始まった場所で言わなければ、逃げたことになる気がしました。放課後の坂道には、銀杏が落ちていました。四人が並んで立っていました。何の話か、たぶん見当はついていたのだと思います。誰も口を開きませんでした。和樹くんが少し前に、新太くんがその横に、幸也くんが端に、久遠くんが一歩後ろに立っていました。並び方まで、いつもと同じでした。「後夜祭のこと、ですけど」声が震えないように、私は一度息を吸いました。「返事が、できません」風が吹いて、銀杏の葉が足元を転がっていきました。「でも、黙っているのは違うと思ったので、言いに来ました」「それってさ」幸也くんが、いつもの調子で言いました。「全員フラれたってこと?」「違います」即答してしまってから、まずいと思いました。「……違うんです」「じゃあなんだよ」新太くんでした。責める言い方ではありませんでした。本当に分からない、という声でした。私は、何も言えませんでした。四人とも好きです、とは言えません。言ったら、それは四人を侮辱することになります。誰か一人を選べません、と言えば、理由を聞かれます。理由は、絶対に言えません。うつむいたまま、私は立っていました。坂の下を、部活帰りの一年生が通っていきました。笑い声が遠ざかっ
文化祭の代休が明けて、学校が始まりました。四人は、普通でした。幸也くんはふざけていたし、新太くんは鞄を持とうとしたし、久遠くんは半歩前を歩いたし、和樹くんは何も言いませんでした。誰も、後夜祭の話をしませんでした。当番表も、そのままでした。月曜は幸也くん、火曜は新太くん、水曜は久遠くん、木曜は和樹くん。誰も順番を変えようとしませんでした。変えたら、何かが壊れると思っていたのかもしれません。◇それを聞いてしまったのは、木曜日の放課後です。部室に置き忘れた資料を取りに戻って、四組の前を通りかかったときでした。教室の戸が、少しだけ開いていました。「——だから、全員言ったってことだろ」新太くんの声でした。私は、足を止めました。止まってしまってから、聞いてはいけないと気づきました。それでも、動けませんでした。戸の隙間から、夕方の光が廊下に伸びていました。中の四人からは、こちらは見えないはずでした。「なんで知ってんの」幸也くんの声です。「顔に書いてある」久遠くんでした。「お前ら二人とも、月曜からずっと変な顔をしてた。それと、俺も言った」「久遠も!?」「言った」しばらく、沈黙がありました。「……俺も言った」和樹くんの声でした。三人が、同時に何か言いました。よく聞き取れませんでした。「和樹が? お前が?」「うん」「嘘だろ。お前、そういうの一番しないタイプだろ」「したよ」また、沈黙がありました。長い沈黙でした。「……なあ」新太くんが、低い声で言いました。「俺たち、今まで一回も、この話しなか
気づいたら、結守神社の石段の下に立っていました。どうやって来たのか、よく覚えていません。校門を出て、商店街を抜けて、川沿いの道を走って。途中で靴擦れができていたことに、あとで気づきました。十月の夜は、もう息が白くなりかけていました。制服の上着を、教室に置いてきてしまったことに気づきました。取りに戻ることは、できませんでした。石段を上りきったとき、膝に手をついて、しばらく動けませんでした。境内には、誰もいませんでした。当たり前です。祭りでもないのに、夜の神社に人がいるわけがありません。常夜灯が一つだけついていて、拝殿の階段の下まで光が届いていました。あとは全部、暗い木の影です。八月には提灯が下がっていた参道に、今は何もありません。玉砂利を踏む音だけが、やたらと大きく聞こえました。「結守さま」声が、思ったより大きく響きました。「結守さま、いらっしゃいますか」返事はありませんでした。「出てきてください」私は、拝殿に向かって言いました。「聞きたいことがあるんです。たくさんあるんです。緒が育てばって、どういう意味ですか。どれくらいかかるんですか。四人は、あのままでいいんですか」風が、木を鳴らしました。「誰か一人を選んだら、どうなるんですか」答えはありません。「三人は、どうなるんですか」私は、返事を待ちました。待っている間だけ、まだ誰かが答えを持っているような気がしていました。常夜灯の周りを、小さな虫が回っていました。私は、階段に座り込みました。この二か月のことを、全部、誰もいない境内に向かって話しました。当番表が冷蔵庫に貼られたこと。幸也くんと川に入ったこと。新太くんの手が震えていたこと。久遠くんが毛布を持ってきてくれたこと。







